二人に連れられ、菊月は「菊月」と書かれた扉の前に来ていた。
「お邪魔しま~す」「失礼します」
如月がドアをノックし扉を開け、三日月と一緒に中に向かってお辞儀をし、進んでいった。菊月は少しの不安を感じながら後に続く。
「おお、如月、三日月、補給はできたか」
中では、もう一人の菊月が食事をしていた。献立は、納豆をかけたご飯、味噌汁と漬け物、お茶という質素な物だった。納豆は大粒で、一粒頬にくっついていたがその菊月は気づいていないようだった。
「ちょっと、この新人さんを案内してあげたくってね」「補給はこのあとすぐします」と言う姉であるはずの二人は緊張を覚えているようで、今日「起きた」ばかりの菊月とは明らかに違う態度で接していた。
「新人、か。自己紹介をしてやるか」ご飯を食べていた菊月はお茶を少し飲んで立ち上がり、新人菊月に向き直った。納豆を頬につけたまま。
「私が、睦月型九番艦、菊月だ」その左手の薬指に、結婚指輪が光る。威厳を感じさせる何かが、感じられる。「第一艦隊旗艦、百戦錬磨の駆逐艦……提督に付けられたあだ名は!」
菊月は、ゴクリとつばを飲んだ。ところが、そこまでは淡々と喋っていたその駆逐艦娘は、なぜだか顔を真っ赤にした。そして、少しうつむいて、かろうじて聞こえるくらいの大きさで、ぼそっと言った。
「……『きぃちゃん』……だ……」
場の空気がカチンコチンに凍ったように、菊月は感じた。納豆をつけたままの『きぃちゃん』は、ガクガクと震えながら続けた。
「き、『キィ』と……呼んで、構わない……ぞ……。我々の艦隊に、か、歓迎する……」
戦いでその意思と戦闘技術を磨き、大ベテランであるはずの旗艦菊月が、かわいらしいあだ名を付けられそれを名乗ることを恥ずかしがりながら、なおリーダーとしての役目を果たすのを見て、新人菊月は敬意を感じざるを得なかった。とりあえず、納豆を取ってあげたかった。
「さ、さぁ。新人よ、茶でもどうだ?」と、まだ顔が赤いが新人菊月を直視しなおしたキィは、手で食卓においてある急須を指した。「ほら、如月たちも」
「じゃあ、お言葉に甘えて」「では、湯呑みを持ってきますね」三日月はキッチンにある食器棚に向かっていき、如月と菊月はキィとともに、食卓に座った。程なくして、三日月も三つの湯呑みをお盆にのせて座り、急須からお茶をいれると三人に加わった。
「それで、新人菊月よ。あだ名はなにがいい?」と、キィは真顔で言った。
「あだ名、だと……?」
それは菊月にとって思いがけないことだった。如月と三日月にはあだ名は無いようだったからだ。しかし、考えてもみれば、十人以上いる菊月に、あだ名でも付けなければそれぞれを正しく覚えたり、指揮することなどできない。といって、艦むすとしての基礎知識しか記憶に無い菊月には、自分をなんと呼んで良いのかなど、皆目見当が付かなかった。
一分くらい考え続けていた菊月を、ご飯を食べながら見ていたキィは、少しほほえんで
「思いつかないか。では、キクキクなどどうだ?この名前なら、司令官も気に入ると思うぞ」
「き、キクキク……」
菊月は愕然とした。『きぃちゃん』よりはましかもしれないが、『菊月一号』のほうがまだ良かった。だが、キィの威厳とそのあだ名のギャップを考えると、それくらいの辱めは受けて当然、というのが結論だった。
「い、いいだろう」
「よろしい!では私は任務があるので、これで失礼する。すぐに戻るが、その時には艦隊での指命について教授しよう」
「あ、あぁ、頼むぞ」
キィは、食器を台所に片付けると、悠々と去って行った。納豆は結局顔に付いたままだった。
「じゃあ、私たちは睦月型部屋に戻るわね。早く補給しないと、きぃちゃんに怒られちゃうわ」
「これから、よろしくお願いしますね」
如月と三日月は早々にお茶を飲み干すと、出口へと向かっていった。菊月は手を振りながら見送ろうとしたが、如月が扉を開ける前に、勝手に扉が勢いよく開いた。
「如月ちゃあん!!」と飛び込んで来たのは、長身の戦艦娘のように見えた。しかし、赤みがかった焦げ茶色の髪と、濃い緑のセーラー服が、それが睦月であることを示していた。
「む、睦月むぎゅっ」ただ、回避する暇も無く抱きつかれた如月の顔に、特大の柔らかい何かがが押し当てられた。間違いなく、幼児体型だったはずの睦月は、爆乳になっているのだ。背はかなり伸び、セーラー服からのぞく腰はきゅっと絞まり、顔も若干大人びている。黒いソックスはところどころが破け、太ももがはみ出している。
「睦月、大きくなっちゃった!入渠が終わったから間宮さんのところに行ったんだけど、途中にあったレアチーズケーキを食べたら体が熱くなって、気がついたらこんな感じになってたのね!」睦月は、強く抱きしめている如月がバタバタ暴れて逃げようとしているのにも気づかず、まくしたてた。「どうしよう!装備も合わないし、体が重くて砲撃されてもよけられないにゃ!あ、あれ?如月ちゃん?」
如月は、抱きしめられたままぐったりとしてしまい、腕がだらんと垂れていた。胸に包まれ、息ができていなかったようだ。睦月は如月を抱擁から解放すると、如月の肩を激しく揺らした。
「如月ちゃん!如月ちゃぁん!!」
「如月のこと、忘れないでね……」如月の目は虚ろだった。
「洒落になってない!なってないですよ!!」
—
「それで、これが睦月ちゃんが言ってたレアチーズケーキね」
「プリンのようにも見えますが……」
「ふむ……」
睦月が泣いている脇で、菊月、如月と三日月の三人は、つつくとぷるんと揺れる食べ物らしきものを見つめていた。
「杏仁豆腐のようにも見えるな。甘い香りもするぞ」
菊月は、見れば見るほど食べたいという欲求が高まってきているのを感じた。
「間宮さんに、聞いてみましょうか?」という三日月も、その食べ物から目を離せなくなっているようだった。如月も、顔に手を当てて考えているようだったが、口が緩み、今にも一口食べてしまいそうだ。その三人に、急に後ろから声がかかった。
「なに、スプーンならここにあるぞ。食べるというのも一つの手だ。腹を壊しても仕方ないがな」
三人は飛び上がって声の主を見た。そこにいたのはもう一人の菊月……というのも、指輪は付けていなかったのですぐに見分けが付いた……だった。顔の右側に、大きめの切り傷の跡がある。
「なんだ、そんなに驚くことは無かろう」その手には、一本のスプーンが握られている。そしてそれは、菊月の方に差し出されていた。菊月は、思わずそれを受け取ってしまった。
「なんだ、よく見てみれば新人か。私は『きくぅ』と呼ばれている者だ。『クゥ』と呼んでくれればいい」平静を保っているが、耳が真っ赤になっているのに、菊月は気づいた。
「私は、『キクキク』らしい」と、菊月はついさっき付けられたあだ名を名乗った。
「そうか。ではキクキク、私は窓辺で本でも読んでいよう。その食べ物の件が片付いたら、少し話をしようか」といって、クゥは本棚に歩いて行った。
「では、一口頂くとするか」
「あ、ちょっと待ってください!」「キクちゃん!!」という二人の制止は、勢いで動いてしまった菊月を止めるには遅すぎた。食べ物は、菊月の喉を通り過ぎ、胃の中に入っていってしまった。
「し、しまった……」菊月の体が、熱くなり始めた。