キッチンに置かれた二十個のマフィンを前に、おさげの女の子が満足そうな顔で味見をしている。
「うん……今回も成功!」
その少女、魚沼 結月(うおぬま ゆづき)は、お菓子作りが趣味であった。母親手作りのクッキーを食べてから、自分でもおいしいクッキーを作ろうと、母親に習ったり、図書館でお菓子のレシピ本をあさってみたりと、努力を重ねてきた。
「お母さんに自慢しなくちゃ!」
だが、そう喜ぶ結月の後ろにゆっくりと近づく影があった。
「菜津葉ちゃん……今日は、楽しそうだね」
「それはもちろん!明日は結月ちゃんのお家で勉強会だから!」
昼休みも終わりに近づいた頃、三奈と菜津葉は三奈の机で喋っていた。
「結月ちゃん、お菓子……上手、だもんね」
「そうそう!いつも出してくれるクッキーがすごくおいしくて……あっ、結月ちゃん!」
少しぽっちゃりした、おさげの子に声をかける菜津葉。結局、三奈の一件以来、一週間は何も起こっていない。女性の写真を見ると変身する男子生徒がいて、毎日アイドルやアニメキャラのコスプレイヤーにさせられている以外は、何の問題もなかった。
「あ、菜津葉ちゃん。どうしたの?」
「今、結月ちゃんが作ってくれるお菓子の話してたの!いっつもおいしいから、今日も期待してるからね!」
一瞬間が開いた。菜津葉は、あまりにもぶしつけなことを聞いたかと、焦った。
「あ、あぁ……、その代わり、差し入れとかも期待しちゃっていいのかな?」
「うっ……ごめん、ごめんって。でも、何を持っていこうかな……」
結月は、クスッと笑った。
「冗談だよ、明日もお菓子用意して待ってるね」
菜津葉は恥ずかしそうに頭を掻いた。
「うん、ありがと。ごめんね、いつかお返しするからね」
「大丈夫だって。来てくれるだけで嬉しいよ」
結月は手を振ると、自分の席に向かって歩いていった。
「菜津葉ちゃん、お菓子もいい、けど、ちゃんと勉強、してね」
手を振る菜津葉の胸に、グサッと突き刺さる三奈の忠告。
「うう、わかったよ……」
そしてその次の日、土曜日。結月の家には、菜津葉と、少し背が高めでボーイッシュだが雷嫌いの刈羽 亮子(かりわ りょうこ)、それに絵を描くのが好きな三条 愛菜(さんじょう あいな)が集まっていた。
「えっとここが上辺、ここが下辺……だな?だから……」
「あ、そこを二で割るのを忘れてるわよ!もうっ!」
「頭痛くなってきた……」
四人の中では一番成績がいい菜津葉だったが、それでもクラスの中では下の上あたりだ。
「糖分が、糖分が必要だぁ……」
頭をおさえ、机の上に肘を立てる菜津葉に、愛菜も亮子も続く。
「アタシも菜津葉に同意よ……」
「ボクも頭が回らなくなってきた……」
だが、扉の外に足音がすると、三人とも顔を上げ、期待で目を輝かせた。その期待の的、それこそが……
「はーい、クッキーできたよー」
「わが愛しのクッキーだっ!!」
菜津葉は飛び上がり、乱暴に一つ頬張った。硬すぎず、柔らかすぎず、絶妙な食感と、香りが菜津葉を満たす。
「こら!女の子なんだから手伝わないんだったら座って待ちなさいよ!」
愛菜は菜津葉を叱ったが、自分も待ちきれない様子である。
「いっぱいあるから、そんなに急がなくてもいいよ」
結月はニッコリと微笑みながら、クッキーが乗った皿をゴトッと机の上に置いた。
「ホント、いつも結月のクッキーは美味しそうだよね」
クッキーの甘い香りをかぎながら、亮子はうなった。
「そんなことないよ、私も時々失敗するよ」
「じゃあ、いただきまーす」
「あ、あなたはもう一個食べたでしょ!」
「なにをー!」
言葉では争いつつも、あまりに尊いクッキーの前で、行動は謹んでいる二人だったが、その大声でもう一人の人間が部屋に召喚されることになった。
「菜津葉も愛菜もうるっさーい!!いまゲームやってんの!」
それは、結月の弟、那月(なつき)だった。
「ごめん、那月くん……」
「もうちょっと静かにするから、許して、ね」
「ボクも、もうちょっと二人を止めるようにするよ……」
那月は、ふんっと鼻を鳴らした。
「分かったよ。あ、お姉ちゃん、マフィンが……ひっ」
那月は何かを言いかけた。が、その瞬間自分に向けられた姉の顔を見て口を開いたまますごすごと退散していった。
反抗期を抜けたばかりの男の子を恐怖させる表情。いつも大人しくおしとやかな結月からは想像しづらいものだったが、菜津葉は恐る恐る結月に声をかけた。
「ゆ、結月ちゃん……?」
「結月、どうかしたの?」
結月はゆっくりと三人の方を向いた。しかし、三人の想像と違い、結月はさっきと変わらず優しく微笑んでいた。
「なんでもないよ。じゃあ、これ以上弟を困らせるのもアレだし、勉強しよっか」
「う、うん……」
結月に感じた恐怖は、勉強で頭がいっぱいになった三人の記憶からはすぐに消え去った。クッキーは相変わらずとても芳醇な香りを漂わせ、思考の潤滑剤となったようで、あっという間に時間は過ぎる。
そして夕方5時。
「あ、もうこんな時間……そろそろ帰ろっか」
勉強が一通り終わったところで、菜津葉が壁にかかった時計を見て言った。
「あ、ホントだ……でも、勉強したかったところはちゃんとできたよね!」
「ホントにね。結月がいなかったら、無理だったわ」
「ありがと、結月ちゃん」
三人にお礼を言われ、勉強では足を引っ張る方だった結月が照れて顔を伏せた。
「そ、そんなことないよ……」
そんな結月を見て、すこし勉強の疲れを癒やした三人だった。
そして玄関先。
「じゃあ、また今度勉強会しよーね!」
「うん、また来てね」
「それじゃ、学校で会いましょうね、結月」
「じゃあね!」
別れの挨拶を交わし、解散した……ときだった。
『菜津葉ちゃん!』
「のわぁっ!」
その日一回も喋っていなかったフリューが、急に大声を上げたのだ。周りに気づかないようにしていたせいで、それに反応して上げた声が逆に三人を驚かせた。
「ど、どうしたの、菜津葉」
「な、なんでもないよ……ちょっとつまずきそうになっただけ」
「そうなの?気をつけなさいよ」
全然バランスを崩す様子もなかった菜津葉には苦しい言い訳だったが、それで通ったようだ。幸い大声を上げた瞬間は、誰も菜津葉を見ていなかったのだ。
「じゃ、じゃあね……」
菜津葉は少し急ぎ足で角を曲がると、苦情を言った。
「何してくれるのフリュー!びっくりさせちゃったじゃない!」
『あの子を浄化するチャンスです!さっき弟さんが言っていた『マフィン』。あれが浄化の鍵でしょう』
話を聞く様子もないフリューにため息をつく菜津葉。
「あのさ、結月ちゃんが作ったクッキーを食べたのに何とも無かったんだよ?それがマフィンになったところで、何の差があるの?」
『それは、私には分かりません。ですが、弟さんが、多分ですよ、口を滑らせたときの、彼女の表情。魔力に操られている人間のものです。間違いないです』
「……そりゃあ、浄化してないんだもの。そんな表情もするでしょ……でも、マフィンは怪しいね」
菜津葉は、道角からそろーっと頭を出し、結月の家の方を確認する。玄関先からは誰もいなくなっている。
『少し、スパイ活動をする必要がありますね……菜津葉ちゃん、もう少し小さくなって下さい』
身長120cmの菜津葉だったが、このマスコットはもう少し小さくなれと言い出した。菜津葉は耳を疑った。
「えっと……いま、なんて?」
『小さくなるんです、スパイするなら体重が軽いほうがいいんです!』
元マッチョが言う台詞でも無いと思う菜津葉だったが、渋々従った。小さくなれ!と強く念じると、菜津葉の体はひと回り小さくなり、身長は100cmくらいになった。
「これでいいのね」
菜津葉は少し怒りを込めてフリューに確認した。
『ええ、行きましょう』
菜津葉はぶかぶかになった服に苦戦しながら、結月の家に戻った。
――
キッチンに足音を極力出さないように向かうと、中から結月の声が聞こえてきた。
「うん……今回も成功!」
やはり、お菓子を作っていたようだ。中からは濃厚なまでの甘い香りが漂ってくる。
『む、この香り、魔力を含んでいますね……先程のクッキーとは違います』
クッキーの方には魔力はなかったらしい。あの甘い香りはホンモノだったのだとわかって、少しほっとする菜津葉だった。
勇気を出して、キッチンの中を見る菜津葉。だが、身長が低すぎて机の上においてあるものが見えない。密かに、菜津葉は小さくなれと命じたフリューを恨んだ。
だが、その奥にいた結月の様子がおかしい。いつもより心なしか大きくなっているように見える。菜津葉が小さくなっているせいかもしれない。だが、胸にも先ほどはなかった突起が突き出ている。明らかに成長している。
「姉ちゃん、くせもの発見」
唐突に後ろから声がして、「きゃっ!」と声を出して跳ねる菜津葉。そこにいたのは那月だった。どうやら、スニークスキルでは那月の方が上だったらしい。
「誰かな?」
裸エプロンの結月が近づいてくる。やはり成長している。そして、菜津葉の前まで来るとしゃがみこんだ。
「ご、ごめんなさい」
結月は、いつの間にか家に上がり込んでいた幼稚園生――小さくなった菜津葉だが――を見て、首を傾げたが、すぐに微笑んだ。
「見かけない子だけど……ここまで見ちゃったんだし、最後まで見ていってよ」
「えっ」
「私の仲間になれば、なにも言えなくなると思うしね」
そこで、菜津葉はすでに両腕が紐で縛られているのに気づいた。那月が、すきを見て拘束していたのだ。
――これくらい、成長すれば取れる……!
そう思って強く念じようとする菜津葉だが、フリューに遮られる。
『だめです、切り札は最後まで取っておいて下さい』
――そ、そんな……
「こんなところじゃ狭いから、リビングに行きましょ」
結月は菜津葉の腕を掴むと、優しい力で引っ張る。菜津葉も素直に従う。
「私、どうなるの……?」
「どうもしないけど、オトナの女性の快感を味あわせてあげるよ」
いつもの落ち着いた雰囲気だが、結月の瞳は怪しく光る。リビングに着くと、菜津葉は絨毯の上に倒され、上に重い椅子をおかれ動けないようにされた。結月は菜津葉が完全に拘束されたのを確認すると、那月に向かって頷いた。
「じゃあ、始めるよ、那月」
「うん、姉ちゃん」
そして、那月が持ってきていたお菓子を一口食べる。それはフリューの予想通り、マフィンであった。そして少しすると、クッと結月の背が伸びる――マフィンが魔力の源であることは、間違いないようだった。那月はこれから始まることをもう知っているのか、ただただ姉の姿を見ていた。
「見た?信じられないでしょ……?」
これくらいの成長、これまでの自分や三奈と比べれば何の驚きでもない。身長は130cmに達したくらいで、体型もまだ幼い子供から変わり映えしない。こういうときのアドリブが苦手な菜津葉だ。
『ちょ、ちょっと、菜津葉ちゃん!ちょっとくらい驚いた顔しないと……!』
――だ、だって……
なんの反応も返ってこずに結月が怪訝そうな顔をしたところで、フリューが辛抱しきれなくなったのか、またもや体のコントロールを奪い取った。
「え、お姉ちゃん、おっきくなった……?」
乗っ取るやいなや、これまでの菜津葉の失態を取り繕うフリュー――効果はあったようだ。結月は、ニッコリと微笑みを浮かべた。
「うん、そうだよ。でも、まだまだこれからだから、楽しみにしててね」
『こらっ!フリュー、なにしてくれるの!!』
フリューは頭の中に聞こえる菜津葉の訴えをスルーし、恐怖に震える幼稚園生を演じた。
「わたしにも、何かするの……!?」
「それは、もうちょっと待っててね。お菓子はたくさんあるから」
姉の言葉に答えてか、那月は菜津葉にお盆いっぱいに載ったマフィンを見せた。こんなに一人で食べたら、結月はどのくらい大きくなるのか、想像もつかないほどたくさんある。
ここに来て部屋の異様なミルク臭さに気づいた菜津葉は、フリューに乗っ取られたまま、青ざめるほかなかった。