《ガシャーン!!》
「え、えーっ!?」
窓ガラスを突き破り、飛び出した先は10mの高さ。水の放射もすぐに終わり、美優は自由落下を始めた。
「きゃ、きゃあああ!!」
近づいてくる地面に絶叫する美優だったが、その脳裏に確かな、しかも単なる単語の羅列ではない、言葉が伝わってきた。
(落下の衝撃を防ぎます。緊急増殖!)
「……はっ!?」
美優の胸が、ボイン!ボワン!と何段階にもわけて大きく膨れ上がった。
《ドスーンッ!》
車一個分くらいにもなったそれがクッションとなって、骨折どころかかすり傷ひとつ負わなくてすんだ。ただその重さは相当のもので、すぐには動けなかった。
「はぁ……はぁ……」
(逃走の必要性を察知……)
「おい!大丈夫か!?」
知性を増した頭の中の声が、聞き覚えのある声に遮られた。そこには、かの青年が立っていた。
「足の形、それどうしたんだよ……それに胸だけ大きくなるなんて……」
「だ、大丈夫だけど……動けな……んっ!」
「まさか!」
地面と接触した衝撃で、今までポヨンポヨンと揺れ続けていたのが、急に美優の体に押し込まれるように縮み始め、何かが全身に行き渡るように、他の部分は成長し始めた。
「んぎゅっ……くはっ……」
足はすらっと長くなると同時に、ムチッと肉がつき、さらにグキッグキッと筋肉が発達していく。空洞化していた形も、元に戻った。腕も足と同じで、いつもよりも筋肉質な体が形成されていく。
「……前と違う……ウィルスの能力とは違う……どちらにしろ、このチビは……」
チビと呼ばれた美優の身長はゆうに2mを超えていた。だがプロポーションは細くなりすぎず、背が伸びたというより170cmの少女の、体全体のパーツが全て大きくなったような姿だった。
「ま、待ちなさい!!」
「くっ、やっぱりいやがったか、この妖怪が!!逃げるぞ、美優!もう動けるだろ!」
「まってー!」
美優は変身が終わり一息もつかなかったが、五本木の姿を見て逃げはじめた青年を追っていく。青年は、美優が追いついてきたのがわかるとスピードを上げた。美優もスピードを上げていったが、校門を飛び出し、車を追い抜かした時、自分が信じられないスピードで走っていることに気づいた。後ろを振り返ると、通学の時に見慣れた景色があっと言う間に後ろの方へと流れ、学校がどんどん遠のいていく。
「よそ見するんじゃないぞ!今のお前の体で、このスピードで車にでもぶつかったらどうなるか分かったもんじゃないんだからな!」
「う、うん!」
そこで気づいたのは、青年の走る速度も、自分のものと一緒であることだった。それはさっきから同じことであるし、元の体であれば、彼のほうが速くても何も驚くことではないが、車を軽々と追い抜かす彼の体は、美優と同じく人間離れしている。だが、その速度が少し緩んだのにも同時に気づいた。青年は少し苦しそうにあえいだ。
「んぐっ……もう限界か……?もうちょっとなんだ……」
「大丈夫!?」
「大丈夫だ!少し、汚くなるぞ!」
二人は川に流れ込む下水溝の、出口に来ていた。そこに何の躊躇もなく飛び込んでいく青年だが、美優の方は匂いに辟易しながら入っていった。1分くらい中の作業用通路を進んでいくと、そこには小さな扉があった。
「おい……!小さくなれ」
「え?あ、あれ、あなたの胸……」
「いいから!」
青年の胸が、異様な膨らみを見せている。だが美優は彼の表情に気圧されて、念じようとした。が、頭の中の声のほうが一瞬早かった。
(逃亡完了しました。排出……)
「あ、ちょっと待て!ここでやったら……もう遅いか」
美優の手に穴が空き、そこから排出が始まった水が下水に溶け込んでいくのを見て青年が止めようとした。美優の体はその排出と同じペースで縮んでいく。ウィルスが下水に放出されてしまったのだった。
「ごめんなさい……」
「いいから……遅かれ早かれこういうことになってたんだ。さあ、はいれよ。俺ももう、限界だ」
青年はポケットから出した鍵で、カチャッとドアを解錠し、開けた。二人がはいると、カーペットが敷き詰められた二畳ほどの狭い部屋があった。弱い照明に照らされた仄暗いその部屋は、静寂と少しのぬくもりを持っていた。青年は鍵を閉め、カーペットの上に座りこんで荒い息を立てながら、フードを外し、髪を外に出した。
《バサァッ!》
そこから現れたのは、長くつややかな黒い髪だった。
「えっ、それって……女の人の髪……」
「リンスもトリートメントもなしでな」
「……!その声……」
青年の声は、扉を閉める前までとは違って、低めのトーンではあるが確実にアルトの域だ。
「もう、分かっただろ。俺は、女だ。生物学的にはな」
「えっ!!?」
「だから……ここだって」
上半身の膨らんだ部分を覆う服を丁寧に脱いでいくと、ブルンブルンと揺れる乳房が出てきた。
「どうだ」
「おっきい……」
「ああ、それにすごく邪魔だ」
「……」
青年はバツの悪そうな顔を見て、少しフフッと笑ってみせた後、真顔で続けた。
「俺だって好きでこんな体になったわけじゃない。いや、好きでなったようなもんかな……」
「どういうこと?」
「今はこんな姿だが、元は男だ。それが、アイツのせいでなにもかも滅茶苦茶だ」
「あの五本木ってヤツ?」
その名前を聞いた青年の顔がピクッと痙攣した。
「っ……」
「どうしたの?」
「……お前には伝えてもいいかもな。俺の名前。五本木。五本木祐希(ごほんぎ ゆうき)だ」
「ああ、それで名前に反応したんだね……って、すごい偶然だね」
キョトンとした美優に深い溜息を着く祐希。
「ちょ、ちょっと……」
「おい、この流れで偶然だと!?佐藤とか田中みたいなありふれた苗字じゃないだろ?もっと何か勘ぐれよ」
「んー、あ、ええっ!?」
「そうだ、俺はアイツの……」
「お嫁さん!?……じゃなくて、お婿さん!?」
祐希は二回目のため息をついた。
「誰が!アイツと!結婚なんか!!それになんだよお嫁さんって!」
「だ、だよね……」
「……あ、はは、あはははっ!」
急に笑い出した祐希に今度は美優が困惑した。
「え、私何か変なこと言った?」
「変なこと、だって!あっはははは!!」
「えーなに、何なの!」
祐希は少しの間笑い転げていた。床をバンバンと叩いたりするせいでブルンブルンと揺れる胸をドギマギしながら美優が見つめていると、ようやっと体勢を戻した。
「いやいや、すまないな……誰かとこういう風にしゃべるのは久しぶりで……でだな。本題に戻ると、アイツは俺の父親の……」
「父親!?あの人も男なの!?」
「んー、お前もっと人の話を聞けよ」
「ごめんなさい」
「よろしい。アイツは父方の祖母だ」
美優は少しの間言葉の意味を理解できなかった。今前にいる元男の瑞瑞しい女性と、自分を拉致した研究員の年齢はそれほど離れているように見えなかったからだ。
「え?あの人が、あなたのおばあちゃん?え?」
「まあ、すぐには納得出来ないだろうな。若返るウィルスを使って不老の体を手に入れてるのさ」
「わかがえる……うぃるす?」
「……つまり、めっちゃくちゃ若作りしてるみたいなもんだよ!魔法みたいな何かで!」
半分投げやりに噛み砕いた説明で、美優は合点がいったようだ。
「ああ、魔法!」
「それでいいのかよ」
「んーまあね」
「……で、その魔法を色々試しているうちに、俺の妹も巻き込まれて……変わり果てた姿になってしまったんだ」
祐希は続けた。祖母が新開発の身体強化ウィルスの検体に自分の孫を使い、成功してもおぞましいことになるであろうその実験が失敗したこと。結果、全身の脂肪組織の異常増殖が起きて、見るも無残な姿になってしまったこと。兄である祐希は、揉み消しという名の抹殺から救出するために、実験結果を用いて改良されたウィルスを自分の体に打ち込んだこと。成果は出たが、副作用で女性化してしまい、胸だけはなんとか縮められるものの、先ほどのような高速移動を過度に行うと、膨らんできてしまうこと。その話の間美優は神経を集中し、なんとかついていった。
「そ、それで今、妹さんはどこに……」
「ああ」
祐希は、入ってきた扉とは、部屋の反対側にある鉄扉を指さした。
「この扉の向こうだ。そうだ、お前の中のウィルスに、助けてもらおうか」
「助け?」
「妹のウィルスは完全に暴走状態だが、お前のウィルスに制御してもらうのさ。そうすれば妹も少しは元に戻れるかもしれない」
「……」
「できるか?」
頭の中の声は、反応を見せなかった。
「分からない、けど……」
「物は試しだ……俺だって、お前のウィルスを使って妹を治そうとしてたわけだしな」
「……?」
「……じゃあ、行くぞ」
鍵がかかっていない扉が、開かれた。すると、汗臭い空気がムワッと入ってきた。
「しまった、佑果(ゆうか)、長い間一人にしてごめんな」
電気が付いていない真っ暗な部屋に向かって祐希が声をかけると、か弱いが少し低く太めな少女の声がする。
「ううん、いいんだよ」
「電気、つけるぞ」
祐希がスイッチを入れると、美優の目に、高さ3メートルくらいの、床に置かれた肌色の半球が飛び込んできた。数多くのチューブが繋がれ、ある一本は中から何かを吸い出し、他の一本は逆にその塊に供給している。
「この子が、俺の妹、佑果だ」
祐希は、重々しく言った。